光と闇の観察日記

人間や社会の観察日記

ネットとリアルは分離できない

ニコ生を始めようと思った動機については「ニコ生を始める初心の心構えとして」で触れましたが

もっと具体的に言うと、youtubeの音声動画で著名人が、ニコニコはオワコンだと盛んに言っていたので、どんなオワコンだろうと覗いてみようと思いました。実際に見てみるとなかなか感慨深いものがありました。
システムとしてのオワコンというより、詳しくは言いませんが別のオワコン感を感じました。

ネットの慣習として、ハンドルをつけたほうが良いのかなという感じで、いちおう僕もハンドルをつけていますが、個人的には別に本名でやってもいいかなと思っている人間です。

たしかに、本名など情報を公開している場合、変な人に目をつけられると困ると言うのはわかります。
ただ、社会に変革をもたらそうとか、堅い企業の社員とか、個人の活動が制限されていたり、情報発信を監視されている場合はまた別ですが、基本的に情報発信というのは、いろいろな自分の情報が公になっても良いという前提で発信するべきだと個人的には思っています。
異論のある人は多いでしょうが、情報は責任を取れる範囲で発信するべきだと思います。

誰が見ているかわからないネットで配信している段階で、ニコ生は「世間」であって、ネットだからといって、ネタだからと許してもらえるとも限らないというのは理解しておいたほうが良いかもしれません。
それは配信を見た人間が各々判断することなのですが、一つのラインとして、家族とか隣近所とか会社の同僚上司とか学校の同級生とかが見ても問題ないラインが一つの基準です。

配信に対して各個人でさまざまな目的があるので、一概には言えませんが、「自分は」困らなくても、周りは困る場合もあります。
ニコ生の配信者に対して素朴な疑問を感じることもあります。生じた素朴な疑問も、配信者に直接コメントをすると傷つけてしまいそうで、そっと見守っています。

どんな組織、コミュニティにおいてもコードや不問律というものがあります
放送とか出版の場合、放送コードとか、出版コードなどと言われるもので、それは法律になっていなくても、企業共同体のようなもので定めていたり自社基準があったりします。

ニコ生に対して「それが面白いんだろ、これは言わない約束だ」という不問律であったら申し訳ありませんが、
自分を律することは重要で、個人であってもまともな人は、言ってはいけない、やってはいけない。そういうラインを越えません
人間は自分の置かれている状況が一般的だと思う傾向がありますが、まわりにそういう人間がたくさんいるからと言って、それが当たり前だと認識してると、いろいろと弊害が生じるので注意が必要だと思います。

ニコ生やyoutubeなどの評価は、最終的にはユーザーの質にゆだねられるものだと実感しました。